生きてる証を残してみる

精神疾患10年目を迎えた私の自由きままに綴る言の葉。日々思ったことや感じたことを残してみることにしました。

戦えるわけないから。

いじめを苦に自死したニュースに関して
『死ぬ(自死)ことが出来るのに何故戦わないのか』
といったようなコメントを目にする度に思う。

戦えるわけないから!

親にも言わない(言えない)なら味方はいない。
いじめのアンケートに正直に書いたところで、関係のある大人は保身に走ってしまう。
RPGで例えるなら、独りでラスボスに挑むようなもの。

実戦に移せば、今度は周りが敵(もしくは傍観者)に回る。
いじめを受けている側につくような物好きさんはいません。
いじめを受けている側に着けば、我が身が危険にさらされるのは目に見えているから。

傍観者すら敵に見える、そんな立場に立たされて、果たして戦えるでしょうか?
中々難しいものです。

実際いじめに遭っていた私は『親に話した後に転校』という手段を使いましたが…
要するに逃げたのです。
それも一筋縄ではいかなかったけれど。

死ぬくらいならいじめに立ち向かえ、戦え、と言われても…

“居なくなった方が楽じゃない?”って考える方が楽なんですよ。
いじめと戦ったところで、将来の役に立ちますか?
親にも迷惑をかけるし、証拠を提示出来なかったら裁判沙汰?
子どもながらに色々考えてるんです。

自死するくらいなら闘え、と言える人は、余程気が強くしっかりなさっているのでしょう。

でも、忘れないで下さい。
誰しも戦えるわけではないことを。

そして、いじめが続く今如何に大人の目が行き届いていないか…

いじめ、だなんて名称が最早生温いと思います。
いじめた側は『傷害事件』『殺人』として
逮捕でも何でもされることを切に願います。
逮捕されても勉強できる環境があればいいのでしょう?

いじめを受けている側は、それだけで疲れきっているのに“戦え”だなんて…
言葉の刃を向けないであげてほしいです。

以上、いじめを受けていた側の気持ち。
でした。