生きてる証を残してみる

精神疾患10年目を迎えた私の自由きままに綴る言の葉。日々思ったことや感じたことを残してみることにしました。

いじめのニュース

いじめによる自死のニュースを観ていた。
私には幾つもの疑問点が浮上した。
亡くなった生徒さんについて、他の生徒さんにカメラとマイクを向けるマスメディア。
その生徒さんが真実を知っていても、言えるわけがない…“その場で言えば今度は自分が”
怖いと思いますよ。自死を選ぶ程のいじめが自分の通う学校で起こった…それだけでも生徒さんにとっては『事件』なのだから。
ただでさえ多感な年頃。
どうして他の生徒さんまで巻き込むのか…
けれど、勇気を出した生徒さんが一人。
「(いじめに関する)アンケートに書いたけれど無視された」
学校側は「(アンケートに記述があれば)対処はします」

明らかに矛盾しているけれど、都合の悪いことは隠すのが大人。
私も、学校にも親にも言えなかった。
けれど学校には意地でも通った。
今思えば、自ら傷つく為に通学するなど馬鹿らしいにも程がある。
サボっても逃げても良かったはずなのに、父親が怖くてサボれなかった。

逃げる=自死

この方程式だけは、なんとかならないのかな…
「生きてりゃ良いこともある」だなんて言葉は信じていないから使いたくないけれど、
逝ってしまった君と私がSNSか何かで繋がって話が出来たなら、心の痛みを分かち合えたなら、何か違ったかな。

私も大人だけれど、“いじめを受けた経験のある”
自死に失敗した”
そんな大人だから…

心に傷を負ったまま逝ってしまう、いじめを受けた子達。
私もいつの日か逝くけれど、その時は友達になってくれますか。
いじめを受けた“同士”として…
「こんないじめが遭ってね」
「こっちではこんなだったよ」

生きてるうちにこんな話をしたかった…私はもういい歳をした大人だけれど、こんな大人もいますよ。
いじめを受けた同士として、同じ目線で話したい。
いつの日か実現しないかな…